つわものどもが夢の跡
北海道、函館と言えば夜景やグルメを思い出す人が大勢を占めますが、ここ函館には
幕末期に時代の流れを変える戦争の歴史があり、道南・函館と城郭の歴史も数多く
その城に行ってみれば、信念と志を持って、領地を守ろうと戦った武将のそして、
兵士達の姿が見えてくるような気がします。
今回は、その戦争にかかわった、五稜郭と四稜郭に行ってみました。
五稜郭は、フランス式星形城郭です。
幕府が、函館山の麓に置かれてた箱館奉行所の移転先として1866年、10万両
現在の価値で100億円を掛けて築造完成しかしその後、箱館戦争で旧幕府軍に占領
され、そして榎本武揚らが、率いる旧幕府軍と新政府軍の間に起った戊辰戦争から
今は、公園内に当時の奉行所や各施設の位置や用途などが案内されています。
そこで、戊辰戦争とは!
1868年1月の鳥羽伏見の戦いから、1869年5月の箱館戦争までの一連の戦争のことで
薩長を中心とする新政府軍と旧幕府や反新政府の諸藩が旧幕府軍として戦った内戦
です。その後蝦夷共和国の存在もありました。
それは、戊辰戦争の終盤に北海道に逃げ込んだ旧幕府軍勢力が組織(共和国・事実上
の政権)し立ち上げました。旧幕臣の榎本武揚らが五稜郭を占領し、松前を攻め落とし
そこで、蝦夷共和国(正式に認められたものでない)建立を宣言します。
しかし、新政府は諸外国が戦争に口を出してくるのを恐れ、ここ五稜郭に軍を差し向け
戦いの場になりました。
箱館湾での海戦や周辺地域を攻め落とした新政府軍は、榎本に降伏を迫ります。
こうして、1868年5月榎本らは降伏してここ五稜郭にて戊辰戦争は終結しました。
五稜郭が最後の戦いの場所に、なりました。
四稜郭
四稜郭は、箱館戦争の際に蝦夷共和国が、明治2年(1869年)に現在の地
函館市陣川町にある堡塁(敵の攻撃を防ぐ為の陣地のこと)を築城しました。
四稜郭の名称は、4つの突起を持つことに由来します。五稜郭を援護する支城です。
この四稜郭を建設指揮したのは、大鳥圭介(江戸時代後期の幕臣、陸軍奉行・医師
工学者・播州赤穂出身)またはブリュネ大尉(フランス陸軍の士官)と言われています
短いがスロープの付いた砲座があり、土塁と空堀が城壁内を囲んでいます。
普段は、空いていて人影を見ることはありませんが、土塁の上にあっがって座り、目を閉じて、兵士の姿を思い浮かべるのもいいかもしれません。
現在では、もう一つの聖地として有名なことがあります。
四稜郭は、女性に人気の城郭にもなっているからです。ここは地元出身のロック
グループ「GLAY」のメンバーが幼い頃、四稜郭で遊んでいた場所と伝わったことに
影響されています。もちろん「GLAY」は函館人の誇りでもありますが!
それはさておき、ここ四稜郭は幕末の要塞を知るには手軽なスポットです。
遠くに見える五稜郭タワーの距離を感じて、当時の前線の緊張感を想像するのも
いいかもしれません。
五稜郭・四稜郭ともに、つわものどもが語った夢の跡 今、コロナウイルスで
大変な時期ですが、終息を願うばかりです。